Japonism初期感想〜ならとんちきがどれほどのものか見せてやるよおおおおと叫ぶ準備はできていたが嵐はマジだった

私がTwitterで嵐のアルバムの曲別感想を書き出したのは2011年7月発売のBeautiful Worldからで、それには震災とか色々な理由があったのだが要は「なんで今この人たちがこういう音楽やってるのか」という事を自分なりに探るためだった。

でもこのアルバムでは何でこんな曲入ってるんだとか、この人達こういう音楽与えられてどう思ってんだろ、と探る気持ちが出てこない、全部答えが最初からあらかじめ提示されていた「外側から見た日本でジャニーズの原点です」と。

で結局その言葉からくるイメージを良い意味で裏切ってるのが本作。

ジャニーズが「外側から見た日本をテーマ」とか言えば、オリンピック狙いだろ、日系米人が占領軍側から見たヘンテコノスタルジーお稚児さんだろ、浅草の仲見世で売ってるみたいなてろてろキモノガウン着てよさこいして太鼓叩いてんだろ、と思われるだろう。

ごめん私はそう思った。

先行発表されたリード曲「心の空」でWe are サムライ、ヤマトナデシコ♫と来た時ああやっぱり…と思った人は多かろう。ごめん私は思った。

そして少年隊の日本よいとこ摩訶不思議(ジュニアの子供達がクラシックとしてやるような曲)でまた不安は募る。しかしその心配はアルバムを聴き進めるにつれ消えて行った。

とにかく嵐は真面目だ。ジャニーズ・和・原点回帰という言葉から予想されるヤンキー臭さ、とんちきイズムをも客観視し相対化し、昔々あるところにとんちき爺さん婆さんと歌って踊る男子達がおりました、と涼しい顔をしてやってしまう。

今日Mステーションで披露される心の空と日本よいとこ摩訶不思議はある意味前述した一般人の考えるジャニーズ・ジャポニズムにわりと沿った曲だろう。前者はヤンキーよさこい、後者はとんちきニッポンである。しかしアルバムはこのパブリックイメージを両極としてその間を埋めるように「今の嵐の和」として説得力のある出来になっている。
とにかく思うのは嵐の「すべてのマイルドヤンキー臭さを無化していく得体の知れぬ漂白力」である。メンバーの個性もあるが何かプロジェクトとしての強い指向性も感じる。これはジャニー喜多川さんイズムよりジュリー藤島さんイズムと考えたほうがいいかもしれない。よくわからんので後は保留。
 
アルバムを通して気付くのはほとんどの曲が四つうちに還元できること。
どん、どん、どん、どん、というノリでずっと聴いてられるのである。(松本、相葉ソロは16ビートだがヴォーカルがオンビート気味なのでよつうちのノリに聞こえる)
これは例えばパラパラはもちろん、手拍子、横揺れ、といった誰でも参加できるノリがトランス的に続く、皆さんノッてくださいねということだ。じゃにコンなら容易に四つ打ちに合わせてペンライトを振り、団扇を胸の前でとん、とん、とん、とんと軽く振る光景が想像できるだろう。そこに和のテイストが加わればこれはもはや遅れてきた秋祭りの様相だ。実際コンサートへ和装で出かける計画の方も今回は多いようである。
 
Japonismは和楽器が鳴りまくる重量級四つ打ちEDMアルバムなのだ。美しいアンビエントから昭和アイドル歌謡の通俗と職人芸までダンサブルな祝祭性に包まれた曲がきらびやかに詰まっている。
ジャニーズの原点を祝祭的ディスコと考えればこれは正しい方向だ。歌えや踊れジャポニズム
[2015.10.23 Twitterより加筆]
 

*後日、2013年のコンサート「LOVE」で行われた「 FUNKY」という7−80年代ディスコのオマージュ的な曲に合わせて手旗信号的にペンライトを振るオーディエンス参加型の「FUNKYダンス」が今回も実施されることが発表された。当時は盆踊りのようだと思っていたFUNKYダンスだが今回のコンサートにはむしろその盆踊りイズムがしっくりくると思う。

 

もう一つのジャニーズイズムとみだら歌謡の完成形 イン・ザ・ルーム

80年代アイドル歌謡の煌びやかさと少年隊へのリスペクトに溢れ、ほとんどの曲が表拍四つ打ちに還元できるアルバムJaponismのなかでいきなり異彩を放つオフビートなこの曲、イン・ザ・ルーム。ここにある嵐のもう一つの源流、ジャニーズイズムとは、そうSMAP。 

 

都会的でフュージョンなサウンドにダルな歌詞。SMAP1995年のアルバム「SMAP 007〜Gold Singer」で確立されたグルーヴの利いたブラックミュージックをベースにしたJpop。これもまたもう一つの大いなるジャニーズイズムでであることを思い出す。むしろ嵐がデビューアルバムARASHI No.1(ICHIGOU)〜嵐は嵐を呼ぶ〜で若々しく辿っていたのはこちらの流れだっただろう。

私見では嵐が辿ったSMAP以降の音の流れは次アルバムのHERE WE GO!で頂点を極め、続くHow's it going?でフィーリーソウル・ディスコへの回帰という形で一旦終わり、4枚目からはよりpopな曲が中心となっていく。だがこのSMAPの伝統は必ず嵐のどのアルバムにも見え隠れしてきた。成功した曲もあればイマイチの曲もありながらこのジャニーズの伝統をどう生かすか、試行錯誤は続いていた。ここに来てその形がひとつの完成形を見たように思う。

エッジが効いたSMAP 007〜Gold Singerの各曲に比べてこちらイン・ザ・ルームは紗がかかったような、どこか埃っぽい湿った世界。だがそこで展開される嵐五人のヴォーカルがとても魅力的。 

この曲はまるで、五人の声で丁寧に構成された一冊の小説本のようなのだ。
 
世界観は私が密かに日活・ATG系(古くてすいません)と名付けているアングラで男の仄暗い情念を歌ったもの。
眠らないカラダ、Let me down、wanna be…などから続く、実は嵐が得意な系統である。しかし一人眠れない夜が明け交差点であった君への妄想を経てどこかのクラブで踊ってる女に誘われて…もう今回はそのまんまエロなのであった。
 
登場人物は二宮。主人公の男の感情・本能を受け持つ。
暗く拗ねたフレーズを吐き出させたらこの人の右に出るものはいない。
let me downにおいて「なってもワンダぁー」と歌うだけで狂っていく男、その眼差し、見てる風景、そいつがこれからとる行動への恐怖まで想像させた、二宮のフレーズの破壊力。
このアルバムでは「青空の下、キミのとなり」での「出口の見えない世間の“しつぼう”」というフレーズが印象に残った。そんな二宮の「ルージュ、染まりたい」の導入で一気に世界に引き込まれる。
 
小説の作者は櫻井。さて、主人公の二宮をどうやって墜としやろうか、
と思いを巡らしながら自分の中にある理性と本能が主人公と一緒に揺れ動くのを愉しんでいるようでもある。
この、感情の二宮と理性の櫻井が重なったり相反したり声のせめぎ合いをするのがこの曲の面白いところだと思う。
意味ありげではあるけれど、どうももどかしい主人公視点から、場面が転換し櫻井の問答無用に直截的でエロティックなRAPがト書きのように差し込まれるのがとても効果的。
 
 
櫻井二宮が部屋の中にいる男のさまを描写しているなら、大野相葉松本が受け持つのは部屋の空気、匂いや流れる時間。
 
 
大野は今までこの手の曲では櫻井のように「二宮の感情や夢想」に相対する理性の戸惑いや情景描写という役割を担ってきたが、今回は少し趣が違うように見える。相変わらずの「神の視点」的語り口の歌声ではあるが、イン・ザ・ルームという小説本においては活字書体や文字の組み方、造本、文体といった基礎的な部分を担っているように感じる。これは本を手に取ったときの読者=曲を聴いた者の感覚に真っ先に訴えるところで決してぶれてはいけない。やもすれば無機的に聞こえる大野の声が、むしろ無機的であるべき基幹の部分に回ることで、櫻井二宮が語る登場人物に奥行きが出る結果になったと思う。
 
相葉は部屋に射す光、私はこの人の声はいつも光の粒のよう、窓から部屋の中に光が差して空気中の小さな粒がふわふわ舞っているような、そういう声だと思っているのだが、ここでもどこか暖かいぬくもりのような有機的な世界を作り出している。この人がいることで、この曲が昼下がりの薄暗い部屋の中でのことだと想像できてしまうのだ。「可憐な花を抱いて」のフレーズが差し色のように生きている、その花は窓から漏れる淡い光の中に浮かび上がっているのだろう。つーかもう相葉が花だろこの声。
 
 松本はこの曲においては低音パートを受け持っていて、曲全体の手触り、本で言えば紙の種類や色といった役割を担っているように思う。この人の声は優しい甘さや浮き足立つ幸福感といったものを感じさせるのだが、ちょっと背徳的なこの曲ではそのカラーを前面に出すわけにはいかない。その代わり、控えめな甘さ、イケナイ行為ではあるけれどそこにはいっときの幸福も優しさもあるのだ、という空気を醸し出している。控えめだけれど少し特別な楽しさ。本の中に隠されている綺麗な栞であったり、部屋の中のクスクス笑いのような。 
 
最後に、一番大切な、本のタイトル。仮の時点では「ルージュ」いややっぱりルージュじゃ駄目なのだ。男がただ見ている光景ではなくそこには時間と空間と温度が存在しなければ。イン・ザ・ルーム。これで完成。覗いてみたい、読んでみたくなるでしょ、このタイトル。 
 
こうして5人の声が有機的に絡み合い一つの空間を作り出してパッケージされることでこの曲は「年若い少年が背伸びして意味ありげな艶歌を歌う」というこれもまたひとつのジャニーズイズムだが、その次元から抜け出したように思う。まあ実際もう嵐は若くはないのでこの進化はなるべくしてなったとも思える。
童貞くさい「眠らないカラダ」から13年。
嵐も堂々とみだら歌謡を歌えるようになったのである。
 
しかも5人グループならではの複雑な声の構築による奥行を持って。 
 
そして前言を翻すようだがこれは揶揄でもなんでもなく、嵐が正真正銘アイドルたる所以と感じるのはこのような「声の構築」は自分達でやろうと思ってもそうはできないだろうということ。恐ろしく客観的な目で嵐のメンバーそれぞれの声と調和するシーンを作り上げ、つなげて組み立てるミキシングの上手さが嵐という素材の持ち味を引き立てていると思う。意外と本人達も仕上がってからへえこういう風になるのか、と思ってるんじゃないかと想像するほど。そしてその驚きが結果的に各人のスタイルやスキルを次につなげ飛躍させているのかもしれない。
自分達では計り知れない完成系を外側から枠組みし、だんだんと内側からも正真正銘その形になっていく
アイドルの可能性と面白さの一つの到達点を見た思いになれる曲だ。
 

「イン・ザ・ルーム」作詞:小川貴史 Rap詞:櫻井翔 作曲・編曲:Jeremy Hammond

*作曲・編曲者名は現在獄中にいる有名な若きハッカー・アクティビストと同じである。A-bee氏と同じSCOOP MUSICの作家らしいので日本人と思われるがなぜこの名にしたのか…

 

祝祭空間へようこそ「踊る昭和歌謡-リズムからみる大衆音楽」

「踊る昭和歌謡-リズムからみる大衆音楽」輪島祐介/NHK出版新書

 

読み中。鑑賞音楽に対し「踊る」という形でオーディエンスが参加する音楽=大衆音楽として定義付け、そこから昭和歌謡をみていく。

ラテンミュージックが外来音楽の歌謡化に大きく関与、ニューリズム等、今の自分の関心事にドンピシャで、前書き読んだだけでそうだそうだ!で満足気味w

「音によって定義される祝祭的な空間への参加」等、ジャニーズはこれ読んどけ!みたいなフレーズ。本文は特に大上段にフカすところもなく昭和歌謡史を踊りの観点でマンボからパラパラまで丁寧になぞっている。ゆっくり読みたい。

 

著者がアフロ・ブラジル音楽研究の方であることでジャズ・ロック優位の輸入音楽受容史を相対化する視点、Twitterで拝見したのだが大野一雄研究所のパラパラシンポ参加が執筆のきっかけのひとつ等、とにかくツボだらけ。

嵐ヲタクとしては今日本で有数の参加型音楽祝祭空間であるジャニーズのコンサートについても聞いてみたい。だって今ユーロビートやパラパラで踊ってる人たちってタッキー&翼やV6のオーディエンスじゃない?

 

お祭りマンボからラテン、HOUSEからTRAPまで踊っちゃうジャニコンとお客。

 

ユーロビートが日本的土着として定着しつつあるモデルとして岐阜で「ダンシング・ヒーロー」が盆踊りになっているという話で、千葉北西部等各地で見られるボニー・Mの「バハマ・ママ音頭」を思い出した。

ボニー・Mもヨーロッパディスコだけどカリブやアフリカの人を連れて来て作られたエキゾチカだ。

バハマ・ママ音頭は竹の子族風なオリジナルな振り付けでクックロビン音頭みたいにかけっこ足で周り「ソレソレソレソレ」とヤンキーくさい掛け声が入るのと、炭坑節の振り付けで踊るパターンがある。後者の方が絶対的にかっこいいと思うのだが、どうか。

(後日「ダンシングヒーロー音頭」をyoutubeで見た。バハマママ音頭が70年代の和製ソウルダンス風の横揺れステップ+手振りで櫓の周りを回転するのに対し、こっちはやっぱりパラパラで縦ノリアップを取りながらサイドステップで櫓の方を向いて踊るのに時代の違いを感じた。ヲタ芸みたいな振りも。)

[以上、2015年2月16日のTwitterより加筆修正]

 

兎に角、「音によって定義される祝祭的な空間への参加」というフレーズが私は大変気に入った。

これから嵐のコンサートを「音とダンスによって定義される祝祭的な空間−Discoへの参加を呼びかけるもの」としてみればいいのだと単純に思った。